その後のこと

仕事、母業それぞれ休職→大学院→その後

大切な鈍器

言行の一致っていうのが、私の精神衛生上、必要不可欠かつ最重要課題である。

思った事の方向性は保持したまま発出する責任を、私は私に対して持っている。

それに対する反応と、その反応に対する自分の感情にも責任を持っている。

 

 

ここでいう責任とは、処理から逃げない事で、

一度逃げると、自分を誤魔化しきれるはずはないので、ずっとついて回る。

それは結局責任をとるまで消えず、後からそれをやるのは実は非常に骨が折れるので

時間的コスパの面から言っても、ぜひ避けたい。

 

いつも言行の一致ができるとも限らないのはわかっている。

無邪気に素の感情爆弾を放っていると、よく勘違いされる。

残念ながら、とんだ勘違いだ。

そんな事できる芸当も強い心臓も、わしには搭載されていない。

 

思ってないことは、言わない・しない。これに尽きる。

んで、それがうまくいかないのは社会人の戦場、職場ではないだろうか。

毎月会社から慰謝料という名の給料が振り込まれているので、

我慢しなきゃって事は、もちろん沢山ある。

 

でもそれは果たして我慢なのか。

単なる「言行の一致」推進活動の放棄ではないのか。

そもそも慰謝料は慰謝料のままでよいのか。

 

私は今回の騒動を通じて、人が人を助けるやり方を初めて傍で観察する機会を得た。

その中で、その人の考え方とか、やり方とか、

一部分だろうが人となりを垣間見、ああ、こうなりたいと素直に思ったのである。

この、人を斜めに見すぎて万年肩こりのアテクシが。

正直、社会人になってからそんなん初めてである。

 

正論って鈍器みたいなもんだから、やたら振りかざすと痛い目を見る。

でも正論を持って戦うことすら諦めた奴に笑われる筋合いはない。

鈍器持ち続けて走り続けるって、結局才能じゃね?

彼の言う「杓子定規で不作為」達に、私もなりきってたよ。

そんな自分に気付いて心底がっくりしたったわ。

 

 

人間って、諦めるのが簡単じゃないから、だから自虐になるんだと思う。

想いは屈折、でも責任は取りたくない。

ならどうにか誰かを引きずりおろして、ほら安心。

じっと黙って定規握りしめてれば、自分は無傷だったって安心できる。

そうやって生きていくのもまた一つの選択肢ではある。

 

 

正論を振りかざして周りが敵になるほうが、その方がずっとよいではないか。

自虐なんてご免だ。私の人生を私が虐げてどうする。

それなら他人様に虐げられるくらいどうでもなかろう。

そう思った。